映画『竜とそばかすの姫』は今日的な“仮想空間”を考えるための必読書

破綻したプロットの先に…

映画『竜とそばかすの姫』が現在絶賛公開中だ。『サマーウォーズ』や『時をかける少女』などで知られる細田監督の最新作は、公開10日目の時点で興行収入24億円を記録している。ペースとしては快調で、同氏の作品における歴代興行収入1位を記録した映画『バケモノの子』(2015年)の58億円を塗り替える可能性も大いにあるだろう。諸々論じる前に本作のさわりをご紹介しよう。以下、公式サイトのイントロダクションより。

最新作『竜とそばかすの姫』では、かつて『サマーウォーズ』で描いたインターネット世界を舞台に、『時をかける少女』以来となる10代の女子高校生をヒロインに迎えた。

そこで紡ぎ出すのは、母親の死により心に大きな傷を抱えた主人公が、もうひとつの現実と呼ばれる50億人が集うインターネット上の仮想世界<U(ユー)>で大切な存在を見つけ、悩み葛藤しながらも懸命に未来へ歩いていこうとする勇気と希望の物語だ。

現実世界と仮想世界。2つの世界、2つのアニメーション。細田作品ならではのリアル×ファンタジーの絶妙なマリアージュと、かつてない圧倒的スケールの物語を実現させるため、役者、音楽、デザイン、アニメーション、CGなど各ジャンルに多様性溢れる才能が奇跡の集結。

圧倒的な速度であらゆるものが変化し続ける時代、それでもずっと変わることのない大切なものとは―。

さらに重要な要素として付け加えると、本作はディズニーの古典的名作『美女と野獣』からインスピレーションを受けて作られた。オマージュ(というかほぼトレース)も随所に見受けられる。“竜とそばかすの姫”というタイトルから推察できるように、2人の関係性にも「ビーストとベル」が投影されているのだ。そもそも<U(ユー)>における主人公のユーザーネームが“BELLE”なのである。余談だが、本作の英題も『BELLE』だという。

しかしプロットは大いに破綻している。ネットの評判を見回しても賛否が分かれているようで、ネガティブな意見のほとんどが脚本の粗さを指摘するものだ。ゲーム・エンタメ情報サイトIGNの日本版IGN JAPANのレビュー記事で、ライターの葛西祝氏はこう評価している。

不満はいくつがあるが、概ね脚本にある。主人公たちはがなぜこういう行動を取るのか? 彼らが目指しているものは? アニメのなかで描かれる世界観はどうなっているのか?

『竜とそばかすの姫』では脚本の不満を、歌のシーンで覆そうとする。確かに歌のシーンは感動的だ。しかしそれは中村佳穂とmillennium paradeによるMVとしての感動であって、物語の感動とは違う。歌が終わるたびに空疎な物語に引き戻され、失望することが上映中に何度も繰り返される。(竜とそばかすの姫 – レビューより)

ITメディア「ねとらぼ」に掲載された、ライターの将来の終わり氏のレビュー記事では“脚本の致命的な欠陥”が指摘されている。

いずれの批評にも同意せざるを得ず、あまつさえ「美女と野獣」へのオマージュも失敗しているように思われる。なぜなら“オマージュ”を出発点としてしまっているからだ。「ビーストとベル的な関係性」を築きたいがために様々な問題が発生し、そのためだけに登場人物(主要キャラクターでさえも)は存在し、それに伴いプロットの整合性が取れなくなってゆく…。露悪性が著しいSNS、虐待問題、恋や友情といった今日の普遍的なテーマが次々に描かれるのだが、「美女と野獣」の記号的な強さが先に立ってしまっているので、物語に正当性が感じられないのである。展開に困惑しているところを素晴らしい音楽で殴ってくる、という評価は妥当なのではないだろうか。

が、本稿はそれらに追随する批判的なレビューではない。いくつかある欠陥を踏まえても、本作を積極的に擁護したい点はある。それがVR(仮想空間)における先進性だ。

『竜とそばかすの姫』は仮想空間における“死”をどのように扱ったか?

弊サイトではVRの様々な論点について整理してきた。とりわけ仮想空間における生命体としての定義をどこに持たせるか、あるいは持たせる必要があるのかは、現在も大きなテーマである。以前「バーチャル原宿」について論じた際、DOMMUNEの宇川直宏氏の言葉を引用したが、本稿でも今一度ご紹介しよう。

(都市開発による)“快適便利さ”以外の変革が、都市にはあるべきだと思うの。何か人間以外の生命がその都市に変革をもたらす構造が。“快適便利”がジェントリフィケーションをごまかすための記号になっちゃいけないんだよ。それがコロナ禍の我々が乗り越えていかなきゃいけないレイヤーだと思うわけ。(中略)借り物のゲーミフィケーションばかりじゃダメなんだ。今のXRはそんなのばかりで、ほとんどが快適便利に終始してしまっているじゃない。VRの中で死ぬ構造がないといけないんだよね。そうじゃないと人間って真剣に生きないでしょ。“このゲーム捨ーてた”ができるような都市だったら、そのへんのゲームやっとけって話。 – DOMMUNE「多層都市『幕張市』年末特番スペシャル!」より

翻って『竜とそばかすの姫』の話に戻ると、本作では仮想現実における“死”が描かれているのだ。『ぼくらのウォーゲーム』と『サマーウォーズ』を経て、細田作品におけるVRは変化し続けている。『サマーウォーズ』までのVRはデジタルツイン的な仕様であった。バーチャル世界に解き放たれた暴走AIが物理世界の命運を握る。様々なプログラムが実生活に影響を及ぼすが、主軸はあくまでリアルワールドのユーザーだ。ところが、『竜とそばかすの姫』のプラットフォーム<U>では、リアルとバーチャルがほとんど分離している。「現実はやり直せないが、<U>ならやり直せる」というフレーズが劇中で何度も繰り返され、アバターであるアズ(AS)は“もうひとりのあなた”と定義されている。

“<U>ならやり直せる”と言われると、先述の宇川氏の言葉「“このゲーム捨ーてた”ができるような都市」に符合してしまいそうな気がするが、それこそが本作の肝要な部分である。なぜなら、本稿で何度も繰り返しているように<U>では死ぬからだ。

リアルとバーチャルがほとんど分離した世界で、バーチャルワールドの自分が死ぬ状況はいかにして作られるのだろうか? それはまさしく「アンヴェイル(unveil: 明らかにする、公表するの意)」されることだ。<U>で極刑にあたるのが「アンヴェイル」で、ユーザーたちは自分の正体が明かされることを何よりも恐れている。アンヴェイルを行うデバイスも、まるで銃のような意匠が施されているのだ。

そんな中、物語の主人公・すずは、竜を救うために自ら“死”を選ぶ。つまり<U>のユーザー50億人の面前で正体を明かすわけだが、このシーンは素晴らしかったと思う。冒頭で紹介したイントロダクションで、すずは“母親の死により心に大きな傷を抱えた主人公”と形容されている。彼女の母は、豪雨が降りしきる川の中州に取り残された幼い女の子を助けて死んだ。自分が着ていたライフジャケットをその娘に託し、激流にのまれたのである。すずは、自分を残して死んだ母親を理解できなかった。

その“死”を彼女が理解するのがこのシーンなのだ。自分以外の誰かを救うため、すずもまた“死”を選ぶ。リアルとバーチャルの死が同軸で語られ、分離していた世界がここで一致したのである。

しかし死の値(とでも言うべきか)がそのまま物理世界とそれと符合するわけではない。このシーンの後、すずは再びベルの姿へ戻って歌唱する。つまり物理世界とバーチャルのアイデンティティが一致してもなお、「<U>ならやり直せる」構造が機能したのである。文字通り、ベルは生き返ったのだ。

ネットを見渡す限りでは、このシーンがもたらす意義があまり伝わっておらず、やはり脚本の不備として評価されていた。しかし本稿はこのシーンを強く支持する。あえてここでVTuberを引き合いに出すが、彼ら彼女らの多くに“前世”が存在することを、不文律ながら我々は知っている。前世とはすなわち“中の人”であったり、それ以前に演じていたキャラクターを指す。その正体については、調べればいくらでも出てくるが、VTuberの配信や作品を見ている間の我々はその事実を忘れているのである。前世があろうがなかろうが、リアルワールドでどういう人物であろうが、“その人はその人”なのだ。それは不備などではなく、既に我々の身の回りに存在する「リアル」である。

確かに『竜とそばかすの姫』のプロットは破綻している。けれども、音楽で覆そうとする欠陥の中には、本当の勇気と希望がある。それこそが本作の本懐であり、仮想空間におけるひとつの回答なのだ。